ハロー・アンド・グッドバイ

blankpaper2004-07-29



■ 翻訳劇のフシギ・翻訳劇の魅力 2


演劇鑑賞ほど、人によって視点や評価が食い違うものはない。それは、俳優や観客の状況によって上演が毎回同じものにはならないことと同時に、その内容が大きく個人的な体験とリンクしてしまうことも往々にしてあるからだ。


七月上旬。六本木の俳優座劇場で南アの劇作家、アソル・フガード Athol Fugard の『ハロー・アンド・グッドバイ Hello and Goodbye』を観る。1965年、南ア、ポートエリザベスの町。プアホワイト(貧困白人層)の姉弟


作家は『血の絆 Blood Knot』など、アパルトヘイトの状況を鋭く描いた戯曲で知られるが、この作品は、むしろ作家の成育地と出身階層を描き、個人的な体験に深く根づいているようだ。戯曲の最後には、自らの父への献辞があるという。


行方不明の姉が15年ぶりに家に戻ってくる。むかし労働で足を負傷した父が受け取ったはずの保障金目当てである。弟は隣の部屋で寝ている病気の父を起こすなといい、部屋からいくつもの箱を運び出し、姉弟の保障金探しはやがて幼かった日の家族の苦い思い出探しとなっていく。


大恐慌時代を生き抜いたことを誇りにしながら母への思いやりを欠く父を嫌い、母の死後、家出して今は娼婦となった姉。父に従順で、その面倒をみるため鉄道員の夢をあきらめた弟。思い出を語るうちにセリフはやがて宗教的な色彩を帯び始め、父=神・キリストであることが象徴されはじめる。この戯曲は神の沈黙という重い問題をはらんでいるようだ。


しかしそのことに気がつかなくても、この劇は日本のある世代(昭和30年代生れ前後か)の多くが感じるであろう親への感情を揺り起こす。親達が戦争と貧しい時代を生き延びたことを誇りにし、父親が母親に対して理不尽なまでの権力を振りかざしていた時代の思い出。


友人達と遊びに出る姉に追い返してもついていこうとする小さな弟。面倒をみるのが嫌で石を投げて追い返す姉。こんな思い出が語られるとどうにも身につまされてやりきれず泣けてくる。


最近テレビや映画では60年代や80年代に対して、美しい時代として甘いノスタルジアが描かれる傾向が強い。しかしそんなのはウソだ。あの時代にはまだ陰惨な旧世代の影が落ちていた。「自分の子供時代には良い思い出などひとつもない」という姉のセリフの方に自分は深く共鳴する。


久世星佳北村有起哉姉弟は、息が合い、しなやかで個性的。美術(妹尾河童)も特筆に値する。


【上演】2004年7月8日〜18日 俳優座劇場
    作 アソル・フガード  
    翻訳 小田島恒志
    演出 栗山民也


(この文章は、日外アソシエーツ発行のメールマガジン「読んで得する翻訳情報マガジン No.54」に掲載したものです。詳細・登録は以下よりお願いします。)


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