ピローマン 

12月のNY



■ 翻訳劇のフシギ・翻訳劇の魅力 6


10月にシアタートラムで上演された『溺れた世界』(ゲーリーオーウェン作)もそうだったが、なぜ、イギリスの若い劇作家は、作品世界の枠組みとして、時代の特定できない全体主義国家を想定するのであろうか。昨年度のローレンス・オリヴィエ賞新作最優秀賞を受賞した、マーティン・マグドナーの『ピローマン』(The Pillowman (Faber Drama))は東欧のある国家が舞台とされているらしいが、時代は、現代とも冷戦下とも言い切れない。


悲惨な童話ばかり書くカトリアンは、三人の子供が作品と同じ方法で殺されたため、理不尽な権力を持つその国の警察に拘束され拷問を受ける。カトリアンは、両親の虐待のために知的障害となった兄ミハイルと同居しており、兄も拘束されるが、やがて、この兄がカトリアンの読み聞かせた童話の内容の通りに子供たちを手にかけてしまったことが明らかになる。取り調べの過程で、たくさんのもの悲しく、暗い童話が語られ、彼ら兄弟の不幸な過去や、二人の刑事の性癖や過去も明らかになっていく。


陰惨で救いがなく、それでいてどこか優しく切ない物語の数々。警察の私刑による間近な死を覚悟したカトリアンの最後の願いは、これらの未発表の作品が永遠に遺されること。理不尽な射殺の直前まで、彼はあらゆる言葉を尽くしてそれを望み続ける。


両親の実験とされる兄への不気味な虐待が、弟カトリアンの書く悲惨な物語と兄の知的障害を生み、その物語が子供殺しという現実を生む。が、殺伐でない、たった一つの作品「小さな緑のブタ」もまた兄の手により現実となっていたことが、全体の物語に救いを与えることとなる。この劇作自体が物語ることの存続と書くことの永遠性を希求する物語なのだ。


それにしても唐突ともいえる抑圧社会の舞台設定と兄弟の両親の無慈悲な虐待は、劇作のテーマを強調するための強引な道具立てに過ぎないのだろうか。現実世界では、上演期間と前後してイラクや国内で劇作の内容とリンクするような恐ろしい事件が起こった。マクドナーの描いた理不尽な抑圧社会は、彼の目を通した現実世界の黙示録なのであろうか。物語を書くことは果たして現実の世界を救うのか、壊すのか。あるいは劇中のカトリアンの言葉のように、作家はただ書くことだけが使命なのか。深く考えさせられるテーマである。


主演の高橋克美を筆頭に四人の男優が抜群に上手く、三時間を超える上演時間も気にならない。


東京公演 PARCO劇場 2004年11月6日〜23日
作:マーティン・マクドナー
翻訳:目黒 条
演出:長塚圭史
出演:高橋克実 山崎 一 中山祐一朗 近藤芳正 ほか


この文章は、日外アソシエーツ発行のメールマガジン「読んで得する翻訳情報マガジン No.70」に掲載したものです。詳細・登録は以下よりお願いします。


http://www.nichigai.co.jp/translator/mail_mag/index.html

さだまさし「恋文」

アップルストア、ソーホー



恋文


25年以上、さだまさしを聴いてきたのだが、最近は新作CDを聴いても興味が持てず、心が離れていくのを感じている。それでも彼のライブは超一級品であり、魅力的だ。だから半年以上続く一つの全国ツアーには、毎回一度以上足を運んできた。今回も、チケットを自宅に忘れてしまい、もうあきらめようかと思いつつも、予約メールの席番をプリントアウトしてなんとかギリギリ入場させてもらい、聴かせてもらった。ここのところのツアーよりもまとまりもよくしっくり来たほうだったがそれでも、2002年の30周年記念ライブ「月虹」の感動を最後に、残念ながら彼のライブにはピンと来なくなってしまったようだ。


それは自分の感性の変化であるとともに、さだのスタンスの変化でもあり、相乗効果で起こってきたのだと思う。今回よかったのは『檸檬」などの初期作品。これらは、自分とさだまさしとの感性の距離が近かった、自分が10代・20代の頃の作品だから懐かしさもあり、たまに聴く新鮮さもあり、驚きはないけれど、ぐっと集中力が増す。


それからトークが比較的説教臭くなくてよかった。強い社会的メッセージは感じるが、最近は、それがからまわりしかねないようであったり、ついエレガントでない言い方になったり、くどかったりして興ざめしたこともあるのだが、それはなかった。


北の国から」「関白宣言」「主人公」と言った定番があったうえで(でも客席の照明を明るくしてまで、客にマイクを向けて歌わせる姿勢は自分としては好きではない)、新曲で、ぐっと胸を打って欲しいのだが、どうもその新曲がツライ。


新アルバム「恋文」は私のまわりのファンには受けが良く、絶賛する者もいるが、自分にはここ数年の凡庸なアルバムの一つにしか思えなかった。いや、凡庸というのは言いすぎかもしれない。確かに新曲は美しく切なく、完成度が高い。ライブで聴いてもギターテクニックも歌唱の力量も素晴らしい。が、自分には美し過ぎて、上手で、それだけなのだ。何かひっかかりがない。苦味がないのかもしれない。弱さや迷いや哲学がない。言葉も平易になり詩的でない。「春爛漫」などはリフレインがノーテンキ過ぎて自分としては聴くに耐えない。


コトバの人間である私にとって、さだの曲は何より、モノを深く考えさせてくれる詩であり、コトバの響きと意味とメロディが高度に絡み合って織りなす詩の美しさであり重さだったのだ。最近のさだの曲は、応援歌であり、伝わりやすいコトバで書かれたわかりやすいメッセージだ。それらは現在のファンに広く伝わるには違いないが、私にとっては魅力がない。


唯一のメッセージソングと言える「遥かなるクリスマス」でさえ、涙なしでは聴けないというファン仲間の言葉に反して、後半の絶叫にどんどん冷めていく自分がいる。なぜなのだろう。フシギだ。いや「恋文」のなかでは一番いい曲だとは思っているのだが。


客の年齢層も驚くべき高さだ。東京でも、老夫婦をよく見かけるようになった。ほぼ自分と同年代以上、地味なファッション、地味な顔立ち、そういえば彼の曲のテーマに、明らかに「老い」が混じるようになった。ファンマーケティングでそうなるのか。それとも二十歳そこそこで「精霊流し」など、人間の生き死にをテーマとしていたさだなのだから、50代になった今、すでに「老い」を歌うことには不思議はないということか。しかしながら自分にはついていけない感性になってしまった。


しかしまだ彼とは決別できないだろう。ライブの音楽性の高さを見せつけられると、まあ半年に一度は聴いておこうか、と思わされる。


12月6日のコンサートでのトークで次のような話があった。「紅白」で、「遥かなるクリスマス」を歌ってくれと言われている。でも4分半しか持ち時間がない。8分間の曲なので歌いきれない。考えた揚げ句別バージョンを書こうと思っている。歌詞を書き換えるべきか、考えている。


NHKには様々な恩があるさだなのだろうが、この話を聞いてなんだがかわいそうになった。人の気持ちを考えすぎ、義理人情を大切にしすぎると芸術家として大切なことをなくしてしまわないか? なぜ、歌わせたいなら8分よこせ、といわないのだろうか。

9月から11月の演劇

blankpaper2004-11-15



11月15日現在までの観劇記録。


9/29 ママが私にいったこと(青山円形劇場


実力派の女優4人が、少し難解な家族劇に挑戦。演技は申し分なし。翻訳がうまくないところがあるのか、演出が自分の感性と合わないのか。あるいはこういうお話があまり好みではないのかな? もうひとつ楽しくなかったのは残念。


10/1 リア王の悲劇(世田谷パブリックシアター


舞台半分が大きな階段になっているため、最前列での観劇は逆に首が疲れる。美しい衣装と俳優たちの立ち姿にほれぼれ。あの衣装はネイティブアメリカンと開拓時代のアメリカからとられていると思う。背景に映像を映したのと、最終部の人形を使った演出は疑問。長い、のは仕方ないか…。


10/3 赤鬼・日本バージョン(シアターコクーン


ロンドンバージョン・タイバージョンがあまりによかったので、たった4人で、しかも若い俳優が入る、日本バージョンが弱くなるのでは、と心配していたが、そんなことはなかった。若い二人はよくやっていたし、このあと二回観に行ったが固さもとれていった。野田の語りと演技を堪能。空前絶後の3バージョン完走に、楽日はスタンディングで感謝。


10/8 溺れた世界(シアタートラム)


イギリスの若い作家の本。若書きだなあ、と思わされた。勢いと感性だけで、書かれている脚本なのではないかなあ、と推測。物語の背景についての一切の説明がない。現代なのか未来なのかわからない抑圧された世界。美しい者が弾圧され醜い者が支配する。初舞台の上原さくらが好演。フェミニンな存在感がきわだっていた。


10/11 髑髏城の七人・アオドクロ(日生劇場


春のアカドクロとはキャストも演出も違う、東宝版。どうぜおんなじ話だし、三階席だし、客観的に観てやろう、と思っているうちにすっかり引き込まれてしまう。最近はこういうバージョンの違う芝居を連続してやるっていうのが流行りなのだろうか? 市川染五郎鈴木杏の主役コンビがよい。


10/13 胎内(新国立劇場小劇場)


新国立劇場の、小空間を使ったLOFTシリーズの第一。戦後期の劇作家、三好十郎の作品。照明や音響なども含めて栗山演出の魔術を再確認。渋い、味のある俳優もよい。戯曲自体の古さはやはり感じるが、それでも、登場人物の思想を演劇空間で相対化してしまうところなど、戦後すぐの作品でもこういうものがあるのか、と驚かされた。


10/22 こくう物語(ザ・スズナリ


1月に「真夜中の弥次さん喜多さん」を観て衝撃を受け、天野天街作品を観ることにした。「真夜中…」には残念ながら及ばず。初めて観るとすごいなと思ういくつかの演出も、他の作品でもパターンとして同じものが繰り返されていると思うと少し興ざめする。それでもやっぱりスゴイというところは残る。「少年王者館」は、現代日本の演劇にとって貴重な存在。


10/25 ときはなたれて(梅ヶ丘BOX)


燐光群の翻訳劇。冤罪で死刑判決を受け、後に生還した人々に取材した話。アメリカってとんでもない国だ。いや、我が国ではどうなんだろう。拉致されて抑圧国家で生き延びて帰国した人たちはどんな話をしてくれるのだろうか。語られる言葉はみなどこか宗教的で哲学的。小空間で、俳優との距離が非常に近いため、陪審員の皆さん!と俳優がこちらの目を見ていうとどきっとする。


10/27 ヒトノカケラ(新国立劇場小劇場)


新国立のLOFTシリーズ第二弾は、クローン人間を題材とした新作。2006年の設定ということで、SFチックにではなく、同時代のドラマとして、遺伝子病を子孫に残さないために、クローン出産をした母親とその家族の物語が描かれる。キムラ緑子の迫力ある演技に圧倒される。もう少しグロテスクにもなろう話を、テレビドラマ風にきれいにまとめてしまったところは少し物足りないが、素材も演技もここのところの新国立演劇では出色。


10/29 マダム・メルヴィル(スフィア・メックス)


マダムというから人妻と高校生の恋愛かと思ったら、独身の女性教師(勤める学校の習慣でマダムと呼ばれる)と生徒の火遊び風の恋愛だった。モノクロ時代のフランス映画を彷彿とさせるような話。女教師の石田ゆり子の清楚のように見えながら過激でカウンターカルチャーにかぶれた若者風の存在感がいい。少年役は数十年後の語り手も兼ねるので難しい役。今年は難役ばかりに挑戦だ。


11/3 チェーホフ的気分(三百人劇場


チェーホフってあんなヤツだったんだ。肺病で四十代で死んでしまった不遇の作家のようなイメージをもっていたけど、かなりモテモテだったんだね。結婚生活を面倒がってそれで結婚が遅れたという面もあったようだ。でも人妻や女優と同時に恋をして、彼女たちとはどこまでだったんだろう。書簡だけの恋だったのかな。興味はつきない。


11/5 新・明暗(世田谷パブリックシアター


3時間、まったく飽きさせない、永井愛の実力はすごい。日本のトップを争うんじゃないか。永井演出には珍しく、抽象的な舞台美術。俳優たちがユニーク。主人公以外の役者が皆二役以上を演じるところもおかしみを増すと同時に、人間の二面性という批評的視点も感じさせる。漱石を原作におき、単にそれを現代にアダプトするのではなく、漱石(明治)のことばを嗤いながらも現代との同質性を探している。


11/12 ピローマン


所与の悪夢。「溺れた世界」を思い出した。なぜイギリスの若い作家たちは、わけもなく全体主義国家のような抑圧された社会の枠組みを架空の設定として使うのだろう。ドメスティックバイオレンスや、虐待の連鎖や、子ども殺しや、そうした救いのない物事の連鎖の中に、ふと優しさやおかしみが忍び込んでいる。そういう意味で、後味は悪くない。

ときはなたれて/チェーホフ的気分

近所の廃屋(初秋)



■ 翻訳劇のフシギ・翻訳劇の魅力 5


『ときはなたれて』/『チェーホフ的気分』


実在の人物が実際に発した言葉を素材に構成された芝居を、偶然にも続けて二本観た。


一つ目は燐光群アトリエの会の『ときはなたれて』The Exonerated。作者らは2000年にアメリカ全土を旅して、無実の罪で死刑判決を受け、後に釈放された人々にインタビューをしたという。彼らの収監期間は数年から数十年。これらを素材として、裁判記録をも含めてこの劇作は構成された。


会場は「梅ヶ丘BOX」。客が50人入ればいっぱいの、稽古場を兼ねた小空間だが比較的新しい建物のせいか、小劇場につきもののアングラ臭は感じられない。床は落ち葉の散り敷いた公園の一隅のようにしつらえられて、木製の腰掛の他には何の装置もない。主要な六人の俳優はここに腰かけ、交互に立ち上がって、自分が逮捕され、判決を受け、収監され、釈放されるまでの顛末を断片的に語り継いでいく。差別・偽証・任務怠慢・監獄での虐待。おそるべき人間の闇。そして世界で一番優れて強い民主国家であるはずの国の抱える、愚かさと弱さ。


長方形の空間の長辺に二列だけの客席は、裁判の陪審席のようだ。弁護士や検事役の俳優は陪審員である客に向かって語りかける。この小空間を共有した私たちは、否応なしにこれらの事件の目撃者・取材者・証言者となるのだ。社会問題を取り上げ続ける燐光群坂手洋二演出は、だが一種のポップさも持ち合わせており、深刻過ぎず受け入れやすい。長い年月の後、深淵から生還した人々の言葉は時に哲学的な響きを伴い心に残る。


二つ目は劇団昴の『チェーホフ的気分』。没後百年ということで今年はチェーホフ上演が盛んだが、この作品はチェーホフと、妹を含む五人の女性、および編集者との間に交された書簡の言葉を主な素材として、劇作『かもめ』のセリフも取り入れて構成されている。


舞台中央にチェーホフの位置する仕事机。それを囲むようにそれぞれの登場人物の空間が割り当てられ、俳優はセリフのない時もほぼ常に舞台上に存在してそれぞれの時間を過ごしている。チェーホフを囲む人間関係を空間として見せてくれる。複数の女性と並行して愛を語り、愛されたチェーホフ。医者であり作家、長身でハンサム。モテモテで、そのくせ、いざとなると度胸のない男。現代にも存在しそうなタイプである。


作者のユーリー・ブイチコフは、資料研究を通じて新たなチェーホフ像の提出に成功している。が、背景知識なしで観るには、少し難解過ぎ、演出も真面目過ぎるのが欠点だ。歌も入るユニークな展開。特に女優達が生き生きとして魅力的だった。


【上演】
『ときはなたれて』燐光群アトリエの会
 東京公演「梅ヶ丘BOX」2004年10月1日〜11月2日
 作:ジェシカ・ブランク&エリック・ジェンセン
 翻訳:常田景子  演出:坂手洋二


チェーホフ的気分』劇団昴
 三百人劇場 2004年10月21日〜11月3日
 作:ユーリー・ブイチコフ
 翻訳:中本信幸  演出:菊池准


(この文章は、日外アソシエーツ発行のメールマガジン「読んで得する翻訳情報マガジン No.68」に掲載したものです。詳細・登録は以下よりお願いします。)


http://www.nichigai.co.jp/translator/mail_mag/index.html

赤鬼(ロンドン/タイバージョン)

長崎外海町遠藤周作文学館からの海



■ 翻訳劇のフシギ・翻訳劇の魅力 4


『赤鬼(ロンドン/タイバージョン)』


ある漁村に異人が流れ着く。村人は彼を「赤鬼」と呼んで恐れ、排除しようとするが、村でよそ者扱いをされる女だけが「赤鬼」を助け、親しくなっていく。


現代演劇を代表する劇作家・演出家・俳優である野田秀樹が『赤鬼』を、日本人3人とイギリス人1人の俳優で初演したのが1996年。異文化における差別とコミュニケーションについての深い洞察に基づいたこの作品は、しかしながら、重たい論理の言葉ではなく、野田の他の劇作と同様、軽やかな言葉遊びと身体表現によって成り立っている。


この作品は97年にタイ語に翻訳されて、タイ人+イギリス人の組み合わせで東京とタイで上演され、99年の再演では「赤鬼」を日本人の野田が演じている。(『ヤック・トゥアデーン』)


さらに、野田は英訳された脚本を用いて2003年、ロンドンでイギリス人俳優とともに、日本人の「赤鬼」とイギリス人の村人、という逆転の設定でロンドン版(『Red Demon』)を上演した。日本での名声に奢らず、現地で数年来ワークショップを続けた上、スタッフもすべて現地で集めた努力の結晶である。


この、ロンドン・タイ・日本の3バージョン連続上演が、渋谷のシアター・コクーンで行われている。同じ物語・脚本が翻訳された上に異なる文化を背負う役者によって演じられることによる「違い」の面白さを知ることは、野田の言葉を借りるならば「文化混流」の醍醐味を味わうことにほかならない。


ロンドン・バージョンは、科白の力・本場の演技術に長ける。英訳は原作の言葉遊びがそぎ落とされ、日本語だと朦朧としていたプロットや、ちょっとした科白の意味が際立って明確に現前する。地味なアノラック姿の野田が、Red Demonとして恐れられ、村人達が全員真っ赤な衣装に身を包んでいるのも皮肉であるとともに意味深い。衣装ダンス一つを装置として様々に使用する工夫もまた面白く、能舞台をも連想させるシンプルな美しさに満ちている。


タイバージョンはさらに美しい。真っ白な正方形の舞台に現れる14人の村人はみな、白い衣装と褐色の肌。歌、踊り、身体表現のアンサンブルを多用した舞台作りは、言葉での描写を拒否するかのように圧倒的に若々しい力でせまってくる。タイ語が理解できないということもあるが、ロンドンバージョンでは言葉で伝わってきたことが、身体と表情から伝わってきた。


喜劇を装いながら悲劇的な結末。しかし最終部の語りは、繰り返し打ち寄せる大海の波に希望を寄せる。文化衝突の繰り返しがいつか「混流」に、そして和解への導きとなることを望んで。


【上演】 Bunkamura シアターコクーン
Red Demon(『赤鬼』ロンドンバージョン)2004年8月31日〜9月8日
作・演出・出演 野田秀樹  翻訳・脚色 ロジャー・パルパース
ロンドン版脚色 野田秀樹 マット・ウィルキンソン
出演 タムジン・グリフィン マルチェロ・マーニィ サイモン・グレガー他


ヤック・トゥアデーン(『赤鬼』タイバージョン)2004年9月14日〜22日
作・演出・出演 野田秀樹  共同演出 ニミット・ピピットクン
翻訳 プサディ・ナワウィチット
出演 ドゥァンジャイ・ヒランスリ ナット・ヌアンベーン ブラディット・プラサートーン他


(この文章は、日外アソシエーツ発行のメールマガジン「読んで得する翻訳情報マガジン No.62」に掲載したものです。詳細・登録は以下よりお願いします。)


http://www.nichigai.co.jp/translator/mail_mag/index.html

8月9月の演劇

長崎外海町遠藤周作文学館からの海



9月20日現在までの観劇記録。


8/3 だるまさんがころんだ・私達の戦争(燐光群 ザ・スズナリ


地雷がテーマのだるまさん、は再演。あいかわらずの完成度だが、外人の役者さんのたどたどしい日本語はちょっと気になった。でもきっとわざとキャスティングしたような気がする。


私達の、は、初演。三つの作品のオムニバスなのだが、一つ目はイラク戦争の捕虜虐待をリアリスティックに描く。ちょっとどぎつい。二つ目はイラクで一時拘束された渡邊氏の体験の作品化。作り手側の意図とは違うかもしれないが、渡邊氏の行動がいかにも暢気に見えてしまった。三番目は翻訳。イラクから帰還した兵士の話。小品だがこれが一番こころに残った。反戦への気持ちが強くなればなるほど、作品の内容は一元化し、芸術性を失い、結果として訴える力も弱くなってしまうと思う。そういう意味では三番目のBlindness以外はちょっと評価しにくいと思った。


8/11 鈍獣(パルコ劇場)


ねずみの三銃士なる役者三人が企画したお芝居。宮藤官九郎の脚本。ちょっとグロテスクではあったが、男優三人の演技に支えられて、楽しく見る。舞台経験の浅い共演の女優三人も、それとは思えぬいい味出していた。なぞを残したまま終演。夏の夜の娯楽としてはよい。


8/18 花よりタンゴ(こまつ座 紀伊国屋サザンシアター)


7月に続いてこまつ座。どうしても年配の観客が多いのはしかたないことなのか? 役者も新鮮で上手、劇中歌も楽しく、主張もある。となりにいた女子高生らしき二人も最後は見入っていたけれど。もう少しテイストを若者向けにして、もっとたくさんの世代の人に見てもらいたい内容だった。


8/20 お気に召すまま(彩の国さいたま芸術劇場


こちらは若手の男優さん目当てか、女性観客が全体の九割くらいはいそうな具合。全員男優で演じるシェイクスピア。特にヒロインは男装した女性の設定と来ている。シェイクスピアの作品の中ではそれほど有名ではないのでこのくらい奇をてらわないと客足は遠のくかもしれない。蜷川の演出は相変わらず面白いが、大団円の福助はさすがに??? 森の美術は素晴らしい。


8/26 ハロー・グッバイ(彩の国さいたま芸術劇場


二週続けてさいたまに足を運んでしまった。小津安二郎の映画の舞台化という珍しい企画に惹かれて観にいった。帰ってきてから、DVDボックスの「おはよう」を見直してしまった。結構変えてありましたね。小津の舞台化はなかなか難しい挑戦だと思う。


8/27 男性の好きなスポーツナイロン100℃ 本多劇場


うーん、相変わらず長いけど飽きずに観られる三時間強。終演に向けてどんどん感情というか理性というか、揺さぶられていく。濃厚な後味。現代における性ということの本質を考えさせられるし。ケラの才能に驚いた一夜。


8/31・9/8 Red Demon・赤鬼ロンドンバージョン(シアター・コクーン


ああ、9夜毎回観たかった。本場イギリスの訓練された演技と科白術、そしてフィジカルシアターとしての面白さも含めて、素晴らしい。そして野田の演じる小さなただの日本人的赤鬼は愛らしくもあり悲しくもある。演技者野田を間近に見ることのできた幸せ。村人の赤い衣装も暗い舞台に映え、ワードローブひとつをさまざまな舞台装置に見立てる面白さ。600個のビンの照明は水面に浮かんでいるよう。つまりは水底の劇。


9/5 シンデレラ・ファイナル(劇団青い鳥 スパイラルホール)


現代演劇史の本にも載っている女性だけの劇団「青い鳥」の舞台を一度見たくていってみた。80年代の作品の再演。いかにもどこか80年代らしさが残っていてなるほど、と思う。多少古めかしさも感じる。役者さんは若い人もいて魅力的。


9/9 高き彼物(俳優座劇場)


俳優座は今年は記念の公演が続き、これも再演。マキノノゾミ作・鈴木裕美演出。非常によくできたストーリー。これもまた80年代の話。あまりによくできすぎて、ちょっと大衆演劇じみてしまったところがどこかにあり。役者さんはみな素晴らしい。


9/14・9/17 ヤック・トゥアデーン・赤鬼タイバージョン(シアターコクーン


ロンドンバージョンは言葉で評したくなるのだが、このタイバージョンは言葉で語るのがなぜかはばかられる。歌・踊り・身体表現のアンサンブル。純白の舞台に純白の衣装。驚くのは役者さん達の身体。あの波の動きを全員でやるときには、ひとつの有機体になったかのごとく、同一のオーラに包まれる。最終部の「あの女」は決して絶望していない。浜辺を夕陽(朝陽?)に向かってかけていく。あの表情の強さには驚いた。

お気に召すまま

blankpaper2004-08-26



■ 翻訳劇のフシギ・翻訳劇の魅力 3


通っていた大学が、郊外の河川敷近くにあったため、よく中古車で通学して、講義後は仲間と近辺をドライブして時間をつぶしていた。そんな場所に20年後、シェイクスピア全作品を上演しようという芸術劇場が現れるとは夢にも思わなかった。当時、演劇めいたものといえば、キャンパスの空き地の一つに学園祭の期間、出現していたアングラ演劇の黒い不気味なテントくらいであったのだから。


そのアングラを出身としながら、商業演劇に転じ、シェイクスピアをはじめとする古典翻訳劇の演出に独自の日本的美意識を導入し、世界的に知られるようになった蜷川幸雄が、この劇場の芸術監督である。


『お気に召すまま As You Like It』は、この蜷川演出のシェイクスピア・シリーズの一環として、この夏、上演された。今回は若くアイドル的な風貌の俳優二人を主役に据え、女役も含めて全員が男優という趣向。確かにもとをただせば、シェイクスピアの時代は、歌舞伎と同じくすべて俳優は男。しかしながらこの奇矯で現実離れした筋立ての喜劇を、いっそう喜劇化する意図も感じられる。


追放された前侯爵の娘、ロザリンドはオーランドという若者に恋をするが、自身も追放されて、男装しアーデンの森へ逃れる。そこでやはり追放されてきたオーランドと再会するが、ロザリンドは男装したままオーランドと接し、正体を現さない。男装した女性の役を、男優が演じるのだから複雑である。


さすがに難役、まだまだ、若手には荷が重いか。かなり頑張っているのはわかるが、演技の固さも見え、野太い声には興をそがれる。むしろ女装のままの従姉妹、シーリア役が女らしい。それでも、オーランド役を含めて、若い輝きに、九割方女性の観客はうっとり。決めの場面では拍手が起こり、二階席の客は手すりに乗り出し(後席からはとても迷惑、マナー違反)、ウェディングドレス姿でのカーテンコールではスタンディングだ。やれやれ。


そうか、ここは歌舞伎小屋なのだ、とふと気づく。蜷川の演出では、常に歌舞伎が意識されてきた。それは客席通路を花道に見立てて演技に使うということだけではなく、常に観客を挑発し、舞台に観客を参加させること、そして、現状を壊し新奇を創出し、本来の意味で「傾(かぶ)いて」いくことである。この一見、俗に堕した劇のありようも、蜷川の創出した江戸的芝居小屋と思えば、納得がいく。


巨木の立ち並ぶ舞台装置はグレーに統一されて、照明とともに深い森の持つ神秘性を表現して迫力があった。


【上演】
『お気に召すまま』: 彩の国さいたま芸術劇場 2004年8月6〜21日
作:W.シェイクスピア  翻訳:松岡和子
演出:蜷川幸雄  出演:成宮寛貴 小栗旬 月川勇気 他
装置:中越司   照明:原田保


(この文章は、日外アソシエーツ発行のメールマガジン「読んで得する翻訳情報マガジン No.58」に掲載したものです。詳細・登録は以下よりお願いします。)


http://www.nichigai.co.jp/translator/mail_mag/index.html